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鳥取地方裁判所 昭和63年(ワ)259号 判決

主文

一  被告は、原告甲野太郎に対し金一〇一四万一五二二円、原告甲野一郎及び原告乙山春子に対し各金三三八万〇五〇七円、原告丙川松子及び原告丙川松夫に対し各金一六九万〇二五三円並びにこれらに対する昭和六三年七月二五日から支払済みまで年五分の割合による金員を支払え。

二  原告らのその余の請求をいずれも棄却する。

三  訴訟費用は、これを一〇分し、その三を原告らの、その余を被告の負担とする。

四  この判決は、原告ら勝訴の部分に限り、仮に執行することができる。ただし、被告が、原告甲野太郎に対しては金三〇〇万円、原告甲野一郎及び原告乙山春子に対しては各金一〇〇万円、原告丙川松子及び原告丙川松夫に対しては各金五〇万円の担保を供するときは、右執行を免れることができる。

理由

第一  請求

被告は、原告甲野太郎に対し金一四二四万〇一一〇円、同甲野一郎及び同乙山春子に対し各金四七四万六七〇三円、同丙川松子及び同丙川松夫に対し各金二三七万三三五一円並びにこれらに対する昭和六三年七月二五日から支払済みまで年五分の割合による金員を支払え。

第二  事案の概要

一  本件は、被告丁原市が経営する丁原市立病院(以下「被告病院」という。)の勤務医である甲田竹夫(以下「甲田医師」という。)が主治医として甲野花子(以下「花子」又は「患者」という。)に対し行つたマムシ咬傷の診療に過誤があつたために花子が死亡したとして、その相続人である原告らが被告に対し、不法行為(使用者責任)に基づき、慰謝料等の損害賠償を請求した事案である(付帯請求は患者死亡日からの遅延損害金)。

二  本件の前提事実

当事者間に争いのない事実、《証拠略》によつて認められる本件の事実経過は以下のとおりである。

1  当事者

(一) 花子は、大正九年一月一日生まれ(死亡当時六八歳)の女性であり、原告甲野太郎(以下「原告太郎」という。)はその夫、原告甲野一郎(以下「原告一郎」という。)及び同乙山春子(以下「原告春子」という。)はその子、原告丙川松子(以下「原告松子」という。)及び同丙川松夫(以下「原告松夫」という。)はその孫(原告松子及び同松夫は、花子の子丙川夏子とその夫丙川春夫との間の子であるが、夏子は、昭和五四年七月二日に死亡した。)である。

(二) 被告は、丁原市《番地略》において、被告病院を開設し、経営している。

なお、患者の主治医の甲田医師は、昭和六二年三月に乙野大学医学部を卒業後、同年四月、同大学第一外科に入局、同年六月から研修医として勤務したが、翌七月研修医を辞職して、同年八月から被告病院で医師として勤務していたものである。そして、本件に至るまで主治医としてマムシ咬傷患者に対したのは二例程度である。

2  患者の受傷及び死亡に至る経過

(一) 花子は、昭和六三年七月二一日午後一時三〇分過ぎころ、(以下、昭和六三年七月中については、日時のみで表示する。)、右手甲をマムシに咬まれたとして、同日午後二時ころ、救急車で被告病院に搬入された。

(二) 被告病院の初診医丙山医師は、二一日午後二時ころ、来院した花子の右手甲の二個の刺創をマムシ咬傷と診断し、体内に入つたマムシ毒を出すため局所麻酔を施した上で咬傷付近を三か所切開して脱血し、セファランチン(以下「セ剤」という。)を一〇ミリグラムを注射した。その後、二〇パーセント糖液二〇シーシーに混ぜてセ剤二〇ミリグラムを静脈注射し、さらに、五パーセント糖液五〇〇シーシーに加えたセ剤二〇ミリグラムを静脈内に点滴により注入した。このとき、腫脹は手首以遠のみであり、患者の意識も清明で、血圧も安定していた。

同日午後二時二〇分ころ、花子は集中治療室に入院し、甲田医師が担当医師となつた。入院時、全身症状は認められなかつたが、腫れは、患者の前腕の約半分辺りまで達し、患者は鈍痛を訴えたので、午後三時ころ、痛み止めに座薬の鎮痛剤(インダシン五〇ミリグラム)を使用された。午後三時三〇分ころ、腫れは右肘関節辺りまで広がり、その色調は右前腕外側がうす紫色で、内側に発赤があり、所々に点状出血斑が認められたが、全身症状は認められなかつた。

(三) 同日午後五時三〇分ころ、患者が全粥を食し、牛乳を飲んだ際に嘔吐し、その直後の午後五時四五分ころ、丁川梅夫副院長(以下「丁川副院長」という。)が甲田医師とともに回診したところ、腫脹は右肘を超えた辺りまで進行し、色調は紫色になり、出血斑が認められた。そのため、甲田医師は、丁川副院長から助言を受けたこともあつてマムシ抗毒素血清(以下「血清」という。)の併用を考えるようになり、とりあえず、看護婦戊原秋子に対して皮内テストを指示して右テスト(乾燥マムシ抗毒素〔抗致死価、抗出血価それぞれ六〇〇〇単位〕を注射用蒸留水二〇ミリリットルで溶解して原液を作り、この原液の一〇倍稀釈液〇・一ミリリットルを皮内に注射した。)を実施した。その結果、発赤部分が一・九×二・一センチメートルとなり、一センチメートルを超えたものとして陽性と判定された。右結果を受けて、甲田医師は丁川副院長に対し、テスト結果が陽性であると報告して助言を求めたところ、丁川副院長から腫脹の進行状況等もう少し様子をみるように言われて血清投与を中止した。そして、原告太郎に対し、「当院では、マムシ咬傷に対し血清と同等の効果のある薬を使つている。血清は副作用(ショック、血清病など)が出ることがあり、原則として使用しないようにしている。今回の場合テストが陽性に出たため、いずれにしても使用しない。」と説明した。

(四) 同日午後七時一五分ころ、甲田医師が診察したところ、午後六時ころから午後七時一五分まで合計四回の嘔吐(そのうち午後七時一五分の嘔吐の内容物は胆汁と胃液)があつたので、制吐剤プリンペラン投与を指示して一〇ミリグラムを静脈注射させ、その後、それまでのビタミン剤(ネオラミン3B等)が入つていた点滴をプリペラン二〇ミリグラムの入つたものに取り替えさせた。また、そのころ、腫れは右肩辺りまで進行して色は青紫色となり、全身色不良で、腹痛があり、黄緑色の便が中等量排泄された。そして、午後八時ころには、右腕の腫れの程度は、入院時(〈1〉前腕中央部二一・五センチメートル、〈2〉肘部二〇・〇センチメートル、〈3〉脇の下二二・七センチメートル)に比して〈1〉二三センチメートル、〈2〉二六センチメートル、〈3〉三〇センチメートルと増長した。

(五) 同日午後一〇時ころ、甲田医師が診察したが、腫れの進行は右肩で止まつており、嘔気も少しよくなつたが、自尿が出なかつた。

なお、甲田医師は、その後、看護婦に特に具体的な指示は出さないまま帰宅し、翌朝まで待機していた。

(六) 同日午後一一時ころ、患者が痛みを訴えたので、前記座薬の鎮痛剤を挿入した。また、黄色透明の自尿が二五〇ミリグラム出た。

翌二二日午前零時ころ、腫れは右肩辺りまでであつたが、午前七時三〇分には、右肩関節を超えて右胸部にまで達し、その後次第に中枢部に及んでいつた。

(七) 二二日の検査では、白血球数とヘマトクリット値がかなり上昇していたことから、脱水傾向があると判断され、また、尿潜血がかなり多量にあつたことから、マムシ毒による溶血作用が進んでいることが窺われた。また、クレアチンの値も高く腎臓障害の可能性が、さらに、DIC(播種血管内凝固症候群)の診断基準が六点でDICの可能性も疑われたが、二三日になるとその値が改善され、腎不全ないしDICの発症の可能性は少ないと認められた。

(八) 二四日の朝には、腫脹は、右大腿、左上腕上部、頚部にまで及んでいたものの、全身状態は良好と認められていた。しかし、同日午後一〇時ころ、全身症状及び検査数値が急激に悪化したことから、DICの増悪に伴う急性心不全と診断され、対処療法により適宜治療行為を行つたが、二五日午前一〇時四五分ころ、DICを原因とする急性心不全で死亡した。

3  マムシ咬傷の特徴及びその治療方法

(一) マムシ咬傷の症状

マムシ毒が人の体内に与える影響としては、局所の血管を破壊して出血を起こし組織を壊死させる作用、血管透過性を亢進させ腫脹を生じさせる作用、血圧降下作用や赤血球を破壊する作用、血液抗凝固作用などがあり、それにより、局所症状と全身症状が発現する。

局所症状としては、初期には、受傷部位を中心とした痛みと腫脹が見られ、場合によつては、腫脹は中枢側に進行して痛みも増強し、皮下出血をきたすこともある。

全身症状としては、複視、霧視などの眼症状、嘔吐、腹痛、頭痛、発熱、眩暈、血圧降下、冷汗、乏尿などが挙げられるが、全身症状が認められるのは、比較的重い症状の場合であると解されている。

そして、マムシ毒によりどのような症状を呈するかは、体内に注入されたその毒の量が最も重要な要因であるといわれている。

ただし、マムシ毒はハブ毒よりも一回の毒の注入量が少ないため、軽症ないし中等症で軽快するものが大部分であるが、ごく少数例において重症化する。そして、右重症化例のうち、さらに死亡に至るのは一〇〇〇ないし一五〇〇人に一人程度という極めて稀な事態である。

なお、マムシ毒は亜急性であり、その死亡例の大部分は、受傷後数日経過していることが多い。

(二) マムシ咬傷の治療

従来、血清が唯一の特効薬として使用されてきたが、近年では、セ剤の有効性も承認されてきており、現在において、マムシ咬傷治療に通常用いられているのは、血清とセ剤である。

(三) 血清について

血清は、馬の血清中にできた抗体を取り出して精製濃縮したものであるが、その薬効としては、マムシ毒に対する特異性により、体内に入つたマムシ毒を探し出してこれに吸着し、毒を中和して無毒化する作用を有する。

なお、現在、右中和作用を持つのは血清のみであるといわれていることから、特に、体内に多量のマムシ毒が入つたいわゆる重症化例に著効があるとされている。

ただし、血清は、血液中に遊離しているマムシ毒を中和するものであり、右毒の前記作用により一旦障害が生じてしまつた後は、もはやこれを治癒させる効果はないものといわれている。したがつて、その薬効は、血液中に右毒が残留している間に限られることになるから、血清の投与は受傷後できるだけ早い方がより効果的であり、かつ、その有効性には一定の時間的限界があると考えられている。そして、この時間的限界については、諸説あるものの、遅くとも数時間以内に投与する必要があるといわれている。

また、血清は、人体にとつて異種タンパクであるため、これが人体に注入された場合、副作用が発生することがある。

この副作用として最も恐れられているのは、急速反応としてのアナフィラキシー様ショック(以下「ショック」という。)である。これは、血清投与後二、三分ないし三〇分以内に、急速に顔面蒼白、冷汗、呼吸困難、血圧下降、瀕脈、脈拍微弱等の症状を呈し、生命を危険に陥れるものである。

このショックの発生割合は、〇・一パーセント程度であるといわれているが、血清を投与するに当たつては、その稀釈液を皮内注射するなどしてショック発生の可能性をある程度予測し、そのうえで更に、ショックを予防するためにステロイドを同時に投与したり、万一ショックが発現した場合に備えて救急処置の態勢を整えた上で行う必要があるとされている。

その他、副作用としては、血清病の発症の可能性があるが(発症率は一〇パーセント程度)、ショックほど生命の危険を伴うものではなく、適切な治療を施せば、軽快させることができるとされている。

(四) セ剤について

セ剤は、台湾で毒蛇咬傷に民間薬として用いられてきたタマサキツツラフジの根茎から抽出されたビスコクラウリン型アルカロイドである。その作用機序は明確に解明されているわけではないが、生体膜安定化作用、抗アレルギー作用、免疫体産生増強作用などの効果があるといわれている。

したがつて、血清が前記のとおりマムシ毒に対して直接的な解毒中和作用を有するのに比べて、セ剤は、毒で破壊された生体組織や細胞膜の修復、安定化を図ることで毒の影響から生体を防御するという作用を有するものであり、その作用機序を全く異にすることから、両者を併用しても、互いの作用を阻害することはないと考えられる。

また、セ剤は、血清のように特に副作用はないほか、安価で入手、保管が容易であること、操作が簡単であることなどから、近年急速にその使用例が増加している。

三  争点

1  担当医師に血清を患者に投与すべき注意義務があつたか。

本件における争点の第一は、担当医師が患者に血清を投与せず、セ剤のみによる治療を行つたことが、医師の注意義務に違反するか否かである。そして、より具体的には、そもそも血清とセ剤との選択は医師の裁量権の範囲内であるか、次に、もし血清投与の一般的義務が存在するとして、担当医師は、いつの時点において血清投与の必要性に気付き得たかが問題となる。

(一) そもそも医師には一般的に症状に応じて血清を投与すべき義務があるのか、それとも血清とセ剤とは並例的選択的治療方法であり、その選択は医師の裁量であるのか。

(原告ら)

重症化が予想されるマムシ咬傷については、医師は血清投与の時間的限界を念頭に置きつつ、適切な時期に血清を投与すべき義務がある。血清病等の副作用については、適切にこれを予防すべき対処方法も存在し、副作用の可能性をもつて血清投与を躊躇することは許されない。

(被告)

副作用を心配することなく、薬効を期待できるセ剤の評価は、今日医学上定着しており、重症化が予想される場合であつても、血清を投与するかセ剤を使用するかは担当医師の裁量に委ねられている。重症化例には血清を投与すべきとする医学水準は存在しない。

(二) 一般的義務を肯定した場合、担当医師としては、いつの時点で血清投与を要する状態であると判断し得たか。

(原告ら)

担当医師は、遅くとも皮内テストを実施した二一日午後五時三〇分ころには、本件マムシ咬傷の重症化を予測し得たのであるから、その時点までに血清を投与する義務があつた。

(被告)

本件では、皮内テストの結果が陽性であつて、ショック、血清病の副作用の発生の危険が予測されたうえ、その後の患者の全身状態も良好で、腫脹の進行についても治まりかけていたのであるから、担当医師としては、血清投与の有効時間内においては、血清投与を要する重症事例であると判断することは不可能であつた。

2  患者の死亡と血清不投与との因果関係

(原告ら)

遅くとも原告が主張する前記時期までに血清が投与されていれば花子は救命されていた。

(被告)

血清が投与されても死亡する事例や、逆に重症症状を呈しながら、セ剤のみで治癒した事例が報告されていることを勘案すると、仮に本件で血清が投与されていたとしても患者が救命されていたと断定することはできない。

3  損害の発生及びその額

(原告ら)

花子は死亡により以下の損害を被り、原告らはこの損害賠償請求権を原告太郎が二分の一、同一郎及び同春子が各六分の一、同松子及び同松夫が各一二分の一の割合で相続した。

(一) 逸失利益 金六九八万〇二一八円

花子は、死亡当時満六八歳の女性であり、主婦兼農業従事者であるから、賃金の年額が金二二八万五〇〇〇円(六五歳以上の賃金センサスの平均給与額)、ホフマン係数が四・三六四(就労可能年数五年)、生活費割合が三割となる。

(二) 慰謝料 金一八〇〇万円

花子は健康で重病歴もなく、夫である原告太郎とともに円満な生活を送つていたものであるから、この幸せな生活を生命とともに奪い取られた苦痛は、金銭で評価すれば、金一八〇〇万円となる。

(三) 葬祭費 金一〇〇万円

(四) 弁護士費用 金二五〇万円

原告らは、本件訴訟を提起するに当たり、弁護士である原告代理人に委任したが、訴訟の性格、追行の困難さ等を考慮すれば、弁護士費用としては、金二五〇万円が相当である。

第三  争点に対する判断

一  争点1(担当医師の注意義務違反)について

1  マムシ咬傷の治療方法選択に関する医師の裁量権について

(一) マムシ咬傷において、重症化が予測される症例においては、体内に多量のマムシ毒が入つている蓋然性が高く、その毒が人体の中枢部に及べば、その細胞や組織等が破壊されて生命に危険が及ぶおそれがあることから、担当医師は、右毒の作用を早期に抑止して患者の救命を行うべく、最善の治療手段を施すことが一般的に要請されていることは当然であるが、さらに、この場合、担当医師の注意義務の内容として、セ剤のみでなく血清を投与する義務があるといえるかが問題となる。

(二) この点につき、被告は、重症例でもセ剤のみにより治癒された報告例を挙げて、重症例に血清投与義務を課することは医師の治療方法に対する専門技術的裁量権を制約することとなる旨主張する。

確かに、セ剤は、マムシ毒に対して前記した一定の治療効果があることが認められている。しかしながら、セ剤は(その作用機序が必ずしも明確に解明されているとはいいがたいが)、一般にその効用は生体膜を安定化させるなどの防御的なものであると考えられているのに対し、血清は、マムシ毒を特異的に中和する作用を有するより確実な治療法であると認められている。しかも、血清とセ剤とは、その作用機序が前記のとおり異なるから、両者を併用することは何ら問題がなく、重症化が予想される症例においては、その相乗作用によりマムシ毒による人体への影響をより効果的に抑止することができるものと認められる。それに、そもそもマムシ咬傷においては、その死亡例は極めて稀であり、血清とセ剤をその症状に応じて的確に使い分けた(併用を含む。)治療を施せば、そのほとんどの事例においては救命が可能であるものと認めることができる。

したがつて、本件のような現実に死亡の危機に直面する患者に対しては(本件は死亡事例であるから、結果的に重症事例であつたことは明らかであり、この点については争いがない。)、まず、マムシ咬傷による患者の落命という最悪の事態を回避すべく、考えうるあらゆる手段を講じて最善を尽くすことが医師に求められており、また、血清投与に伴う副作用については、これに適切に対処する方法がないではなく、副作用によつて死亡に至る可能性は、本件のような重症事例において、マムシ毒の直接の作用によつて死亡する可能性に比べてはるかに小さいと考えられるから、副作用の可能性を恐れて救命に明らかな効果のある血清の投与を躊躇すべきでないというべきである。

(三) したがつて、本件のように重症化が予想される事例においては、担当医師は、血清投与の効果が期待できるとされている期限内に、セ剤と併用して血清を投与すべき義務があつたものと認められる。

2  担当医師の注意義務違反について

(一) 被告病院においては、本件当時、マムシ咬傷に対して、原則として副作用のないセ剤を中心とした治療行為を行つており、血清の投与については、副作用があることから、その投与にかなり慎重であり、本件でも、甲田医師は、当初は、右治療方針に従つて患者に対しセ剤のみの治療を施していた。なお、被告病院は、昭和五九年のマムシ咬傷死亡事例につき、当裁判所において、血清投与の時期を逸した注意義務違反を認定されている。ところが、甲田医師は、右治療方針に照らしても、患者の腫脹の進行速度が速かつたことなどから、二一日午後五時四五分ころ、丁川副院長とも相談して血清投与を検討して皮内テストを指示しており、被告病院における前記治療方針に照らすと、甲田医師は、この時点で本件マムシ咬傷の重症化のおそれを相当の蓋然性をもつて予測したものと認められる。

(二) 次に、担当医師が、皮内テストの陽性反応により結局血清投与をしなかつた点について検討するに、右陽性反応によつて副作用(ショック)の可能性をある程度考慮しなければならないことは当然としても、そもそも右陽性反応と副作用との相関関係が必ずしも高いとはいえないことに加え、本件では、発赤部分が一・九×二・一センチメートルの比較的軽度な過敏症であると認められること、右認定のとおり、本件は重症化が予想されていた症例であること、血清投与の有効期限(受傷後数時間以内。なお、甲田医師は本件当時一二時間程度(二二日午前二時ころ)と認識していた旨証言する。)が間近に迫つている状況であること等を勘案すれば、テスト後の患者の症状が好転するなどセ剤の治癒効果が明らかに現れていると認められない限り、副作用を恐れて血清投与を躊躇すべきでなく、患者に死の現実的危険が及んでいるものと判断して血清を投与すべきであつたと認められる(本件においては、当初からセ剤による継続的治療が行われながら、結局患者を救命することができなかつた事実を想起すべきである。)。

(三) また、本件では、被告病院の治療方針が右のとおりセ剤に頼る傾向があつたところ、甲田医師から皮内テスト陽性の結果を聞いた丁川副院長は甲田医師にしばらく患者の様子をみるように助言していたこと、甲田医師は、右テスト直後に原告太郎に対して前記内容の血清不投与の説明をしたこと(甲田医師は外科入院診療録に記載していた。)、患者が集中治療室に居ることを除いては血清を投与するための具体的準備(ショック等副作用に対する治療体制を整えること等)を全くしていなかつたこと等に照らすと、甲田医師は、テスト後においては、その基本的な治療方針として、血清投与を選択肢として全く捨てていたわけではないにしても、余程の症状の悪化がない限り、セ剤のみで治療しようとしていたことが窺われる。

そして、甲田医師も一旦は重症化を予想したとおり、患者の腫脹の進行が早く、テスト後においても、特に腫れの程度が午後八時にかけて特に脇の下辺りにおいてかなり増長しているなど重症を窺わせる状況が認められたにもかかわらず、丁川副院長と緊密に連絡を取り合つて血清投与を十分に検討することもなく(ちなみに、甲田医師は医師になつてから約一年程で、マムシ咬傷の治療にも過去主治医として二例ほどの経験しかない。)、テスト結果が陽性であり、その後の症状も、午後七時に右肩まであつた腫れが午後一〇時時点でもさして進行していなかつたこと、患者の嘔吐があつたものの、制吐剤により軽減したことから、これをビタミン剤の影響と考えたこと、全身状態にさして悪い所見がなかつたことから、症状の好転の兆しが認められると判断したために(マムシ毒が亜急性であり、重症の場合でも受傷後早期の段階では急激な症状の悪化が起こることは少ない。)、血清の薬効の期限内(数時間内とすれば、テスト直後か遅くとも二一日午後八時ころまでには投与する必要があつたものと認められる。)までに血清を投与することができず、結局、その投与の時期を逸して投与しなかつたのであるから、甲田医師の右血清不投与は、医師としての注意義務に違反したものというべきである。

二  争点2(患者の死亡と血清不投与との因果関係)について

1  被告は、過去に血清を投与したにもかかわらず死亡した事例や重症症状を呈していたにもかかわらずセ剤の投与のみで治癒した事例が報告されていることを引用し、更に、血清投与が受傷後二時間以内になされないと十分効果が発揮されない旨の鑑定結果に基づいて、本件において、仮に血清がテスト直後に投与されていたとしても患者が救命されていたとは限らないと主張する。

確かに、血清投与により患者が確実に救命されたかについては、現段階で明確にこれを検証する手段はない。

2  しかしながら、そもそも、本件のような不法行為責任の成立要件である相当因果関係の立証は、自然科学的証明ではなく、経験則に照らして全証拠を総合検討し、特定の事実が特定の結果発生を招来した関係を是認しうる高度の蓋然性を証明することであり、その判定は、通常人が疑いを差し挟まない程度に真実性を確信を持ちうるものであることを必要とし、かつそれで足りると解されている(最高裁昭和五〇年一〇月二四日第二小法廷判決参照)。

3  そうすると、そもそも、マムシ咬傷においては、前記したとおり、現実の死亡例が極めて少ないうえ、血清がマムシ毒に特異的に中和する作用を有することは、被告もこれを認めているところであるし、血清の有効期間についても、早期に投与した方が効果がより期待できることは勿論であるが、その有効期限の限界としては、一般に数時間内であるといわれているのであるから、前記治療経過に照らし、本件においても、甲田医師が少なくともテスト直後に血清を投与していれば、患者の死亡を回避することができた蓋然性は高いものと認められる。

したがつて、甲田医師の前記注意義務違反と患者の死亡との間には相当因果関係を認定することができる。

三  争点3(損害)について

1  花子の損害

(一) 逸失利益

原告が主張する前記逸失利益について検討するに、花子は、前記のとおり、本件マムシ咬傷により満六八歳で死亡した女性であり、死亡当時、夫である原告太郎と二人暮らしであり、主婦であるとともに農業にも従事していたことが認められる。

したがつて、右事実を前提にして死亡時における花子の逸失利益を計算すると、六五歳以上の年間平均給与額二二八万五〇〇〇円に生活費控除を四割として、就労可能年数を五年としたホフマン係数四・三六四を乗じた金五九八万三〇四四円となる。

(二) 慰謝料

花子は、被告病院に入院中、強い痛みを訴えていたこと、また、同人は、本件以前には特に既往歴もなく、夫である原告太郎とともに円満な生活を送つていたことが認められ、右事実に加えて本件の治療経緯など諸般の事情を考慮すると、花子が受けた精神的苦痛に対する慰謝料は、金一二〇〇万円を相当と認める。

(三) 葬祭費

弁論の全趣旨に照らし、金五〇万円を相当と認める。

2  相続による承継

前記認定のとおり、原告太郎は花子の夫、原告一郎及び同春子は花子の子、原告松子及び同松夫は、昭和五四年七月二日に死亡した花子の子である丙川夏子の子であると認められるから、右原告らは、その法定相続分に従い、原告太郎が二分の一、同一郎及び同春子が各六分の一、同松子及び同松夫が各一二分の一の割合により、花子の被告に対する右損害賠償請求権を相続したものであり、右損害賠償額を計算すると、原告太郎が九二四万一五二二円、同一郎及び同春子が各三〇八万〇五〇七円、同松子及び同松夫が各一五四万〇二五三円となる(端数は切捨て)。

3  弁護士費用

弁論の全趣旨によれば、原告らが本訴提起及び追行を弁護士に委任し報酬の支払いを約したことは明らかであり、本件事案の難易、審理経過、本訴認容額など諸般の事情を考慮すると、本件事故と相当因果関係にたつ弁護士費用相当の損害額は、原告太郎が金九〇万円、同一郎及び同春子が各三〇万円、同松子及び同松夫が各一五万円と認めるのが相当である。

四  以上によれば、被告は、不法行為による損害賠償として、原告太郎に対して金一〇一四万一五二二円、同一郎及び同春子に対して各金三三八万〇五〇七円、同松子及び同松夫に対して各金一六九万〇二五三円並びにこれらに対する不法行為日である昭和六三年七月二五日から支払済みまで民法所定の年五分の割合による遅延損害金を支払う義務があることになる。

よつて、原告らの本訴請求は、右の限度で理由があるからこれを認容し、その余は理由がないからこれを棄却することとして主文のとおり判決する。

(裁判長裁判官 前川豪志 裁判官 曳野久男 裁判官 佐々木信俊)

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